Vol.161


キーワード: 歴史 活版印刷 本木昌造

日本近代印刷の幕開け―活版印刷の先駆者 本木昌造
誰でも本を読める時代へ。印刷の民主化を連れてきた本木昌造
現代の私たちは色々な印刷物に囲まれて暮らしているといっても過言ではありません。
そのはじまりにまつわる活版印刷の物語です。

近代の印刷方式、オフセット印刷、グラビア印刷、スクリーン印刷、活版印刷のうち、最初に発明されたのは
金属活字を使った凸版印刷の一種である活版印刷で、有名なグーテンベルクが15世紀中ごろに実用化したといわれています。
他方、日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、半島から金属活字が伝来したり、鉄砲の伝来期に欧州の活版技術が
もたらされたりしましたが、完全には根付くことなく、江戸時代に至っても木を使った凸版印刷である木版印刷が主流でした。
浮世絵、錦絵を始めとして、黄表紙等の読み本、寺子屋の稽古本(教科書)、瓦版など絢爛たる木版出版文化が
花開いたのはご存じのとおりです。

さてそんな状況も幕末を迎えるころには様子が変わってきます。
海外からの情報や物資が徐々に日本にもたらされるようになり出した頃、一人の男が現れます。
のちに「日本の印刷の父」と呼ばれる、本木昌造です。

日本近代印刷の幕開け―活版印刷の先駆者 本木昌造
日本近代印刷の幕開け―活版印刷の先駆者 本木昌造

近代の印刷方式、オフセット印刷、グラビア印刷、スクリーン印刷、活版印刷のうち、最初に発明されたのは
金属活字を使った凸版印刷の一種である活版印刷で、有名なグーテンベルクが15世紀中ごろに実用化したといわれています。
他方、日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、半島から金属活字が伝来したり、鉄砲の伝来期に欧州の活版技術が
もたらされたりしましたが、完全には根付くことなく、江戸時代に至っても木を使った凸版印刷である木版印刷が主流でした。
浮世絵、錦絵を始めとして、黄表紙等の読み本、寺子屋の稽古本(教科書)、瓦版など絢爛たる木版出版文化が
花開いたのはご存じのとおりです。

さてそんな状況も幕末を迎えるころには様子が変わってきます。
海外からの情報や物資が徐々に日本にもたらされるようになり出した頃、一人の男が現れます。
のちに「日本の印刷の父」と呼ばれる、本木昌造です。

日本近代印刷の幕開け―活版印刷の先駆者 本木昌造

本木は阿蘭陀通詞(オランダ語通訳、幕府役員としての役も負った)の家の養子となり、
若くして通詞として働き始めます。
しかし通訳業だけでは飽き足らず、航海術、造船技術、製鉄技術などにも貪欲にその知識を拡げていきます。
職業柄、外国書籍にも興味を持っていたようで、25歳の時にオランダ書籍の復刻を目指して仲間とともに
オランダ語の活字と印刷機を購入しますが、技術的な問題に阻まれ一旦は頓挫してしまいます。

日本近代印刷の幕開け―活版印刷の先駆者 本木昌造

その後28歳の時に独自の流し込み活字を製造しますが、まだまだその品質は粗悪なものでした。
またその間に蒸気船の建造や製鉄所の設立、日本初の鉄橋建設などにも携わっています。

時代が明治に変わると早々、上海の宗教本印刷所美華書館の代表ウイリアム・ガンブルより
「電胎法*」という高度な活字製造法を伝授され、やっと満足な活字が作れるようになります。
明治2年には資金を募って初の民間活版印刷所を設立し、大阪、東京、横浜に支所を設立しました。
当初、事業は必ずしもうまく行きませんでしたが、門下の後継者たちが経営を引き継いで発展させ、
近代日本の文明開化に大きな貢献をしました。

この頃には福沢諭吉に「学問のすすめ」の初版が金属製彫刻活字の組版により出版され、
のちに十人に一人が読んだと言われるベストセラーになります。
活版印刷の発達は、誰でも本を読める時代の牽引、印刷の民主化を推し進めたともいえるでしょう。
20世紀後半にオフセット印刷にとって代わられるまで、活版印刷は長きにわたり日本の印刷文化を
支えることになりますが、本木らの功績はいつまでも称えられることでしょう。

※蝋型電胎法:まず木駒を彫刻して「種字」を作ります。それを元に文字を組み上げロウで型をとり母型を制作します。
出来あがった母型を電気メッキし、電気分解の原理を用いて銅を付着させて活字を作る技法です。
いずれの工程でも微妙なズレの磨きや仕込みの精度が要求される大変手間のかかる技法です。

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